インタビュー

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ユメミルノート vol.4|史上初の快挙の先に…宮脇花綸が目指す2つの大きな夢

フェンシング 宮脇花綸選手

 闘い抜くアスリートたちはこれまでにどんな夢を掲げ、叶えてきたのでしょう? そして、その夢のためにどのような努力をし、失敗や苦労を乗り越え、どんな人やものに支えられてきたのでしょうか。そんなアスリートの夢を紐解く連載「ユメミルノート by スポーツくじ」。第4回は、パリ2024オリンピックで日本女子フェンシング史上初となる女子フルーレ団体銅メダルを獲得した宮脇花綸選手が登場。

 取材が行われたのは、わずか数時間前まで激しい動きで剣を突いていたトレーニング場。「最近は『謎解きゲーム』にハマっているんです」と語って笑顔を見せてくれた宮脇選手の表情は、トレーニング中の研ぎ澄まされた鋭さとは違い、穏やかで柔らかさに満ちています。

 競技を始めた幼少期のこと、剣で生きていくと決めたときのこと、そして叶えた夢のその先のこと――。終始ぶれることのない芯のある語り口で、自らの想いをはっきり と言葉にしてくれた宮脇選手。輝かしい栄光の裏側にあった挫折や葛藤、そして現在の夢やスポーツくじの助成金についても、確かな思いを言葉にしてくれました。

宮脇花綸選手が記入したユメミルノート int_170_2
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剣道のつもりが、フェンシングに!?

int_170_4 フェンシングを始めた頃の宮脇選手 [写真]=本人提供

 宮脇選手がフェンシングと出会ったのは、5歳のときでした。きっかけは5つ年上の姉が「剣道をやりたい」と言ったこと。家の近所には剣道教室がなく、代わりに通うことになったのが、車で10分ほどの場所にあったフェンシング場でした。「母も姉も大雑把な性格で『西洋版剣道みたいな感じだし、いいんじゃない?』って(笑)」

 最初は姉の送り迎えに着いていくだけだった宮脇選手は、コーチに声をかけられたことがきっかけで、自らも剣を握るようになります。そして「なんとなく始めた」というフェンシングに、気づけば夢中になっていました。

「もともと団体競技よりも個人競技のほうが向いていたんだと思います。自分が頑張った分だけ結果が返ってくる。逆に、負けたら自分のせいというのもすごく納得がいくんですよね」

 幼少期の宮脇選手は「小柄な体格で、運動能力も特に高かったわけではなかった」といいますが、それでも年上の選手にも勝てることが何より楽しく、「フェンシングは自分に合っている」と感じるようになっていきました。やがて、その思いが確信へと変わっていきます。

「小学校4年生のときに、全国大会で優勝したんです。自分の中で『趣味』や『習い事』だったフェンシングが『特技』に変わった瞬間でしたね。日本一になれたことが、子どもながらに本当に嬉しかったのを覚えています」

一時は「引退」も考えた、東京2020オリンピックの延期

int_170_5 “レジェンド”太田雄貴氏との出会いがオリンピックを強く意識するようになったきっかけという [写真]=本人提供

 小学4年生で全国優勝を果たしたときから、フェンシングは明確に「夢の中心」に変わっていきます。やがて日本代表入りを果たし、10代後半から国際大会にも出場。高校、大学と進学していくなかで進路に迷うこともありましたが、最終的には剣の道を選んできました。

 そして迎えたリオデジャネイロ2016オリンピック。宮脇選手はこの大会の代表選考で落選を経験します。そのときは「納得できる部分もあった」と振り返りますが、東京2020オリンピックに向けた選考レースに対しては、4年前とは違う強い覚悟がありました。

「リオのときは、まだ『出られたらいいな』くらいの気持ちでした。なので、落ちたときも『ああ、やっぱりそんなに甘くないよね』と、ある意味では納得できる部分もありました。でも東京オリンピックのときはもう社会人で、企業の所属選手として活動していましたし、何より自分の国での開催ということで『ここが人生で一度のチャンスかもしれない』という思いもあったんです」

 気持ちとは裏腹に、宮脇選手は選考大会でなかなか結果が出せない状況に苦しみました。そのさなか、新型コロナウイルスの影響で大会が1年延期されることが決定。宮脇選手はこのとき、「引退」という言葉が頭をよぎったと振り返ります。

「当時、選考レースの大半は終わっていて、残された試合はあと1つだけ。その1試合で圧倒的な結果を残さないと出場できないという状況でした。私はもう一生、オリンピックには縁がないのかもしれない。もう引退して早めに切り替えるか、パリまで見据えて競技を続けるか……。その2択で本気で悩みました」

代表選手のため、誰よりも強いスパーリングパートナーに

int_170_6 “世界で一番強いスパーリングパートナー”として仲間たちの前にたちはだかった

 東京2020オリンピックが延期しても競技を続けると決断した時点で、宮脇選手はすでに「パリを目指す」という覚悟を固めていました。

「実際に落選したときは、もちろんショックはありました。でもそれ以上に、当時のオリンピック自体がすごく大変な状況だったんですよね。だから自分の悔しさよりも、代表に選ばれた選手たちがしっかり集中できる環境を作ることのほうが大事だと思っていました」オリンピックに出場する選手たちのために、自分たちにできることはないか――。その思いが彼女を突き動かします。

「通常なら代表選手たちは海外で合宿をしたり、世界中の強豪と戦って調整します。でもあのときはコロナの影響でそれができなくて。私たち『落選組』が、彼女たちの練習相手になるしかなかったんです。

 自分たちが力不足だったせいで彼女たちが負けてしまったら、それは絶対に悔しい。だから『世界で一番強いスパーリングパートナーになろう』と決めて、練習に全力で取り組みました」

 代表選手を支える日々は、競技者としての自分の誇りを取り戻す時間でもありました。そしてこの姿勢こそが、次なる道を切り開くことになります。

日本女子フェンシング史上初の快挙と、こみ上げた悔しさ

int_170_7 パリ2024で悲願のオリンピック初出場を果たした宮脇選手 [写真]=Clive Brunskill/Getty Images

 2度の大きな挫折を経てなお、競技に残る道を選んだ宮脇選手は、3度目のオリンピック挑戦となったパリ2024オリンピックでついに出場権を獲得します。大会に懸ける思いは、リオデジャネイロのときの「出られたらいいな」という感覚とはまったく違うものでした。「『出場して、メダルを取りにいく』、という意識に変わっていました。出るだけじゃなく、『結果を出す』ことにこだわって臨んだ大会でした」

 パリでは個人戦に続き、女子フルーレ団体の一員として出場。東晟良選手、上野優佳選手、菊池小巻選手と共に出場した団体戦で3位になり、日本女子フェンシング史上初となるメダルを獲得します。

「個人戦がうまくいかなかった後、みんなで集まって話し合いました。そして、その日に男子エペの加納虹輝選手が金メダルを獲ったのを見て、『私たちも絶対、表彰台に立とう』と気持ちを一つにできたんです。

 勝った瞬間は、正直まだ実感がわきませんでした。でも、メダルを手にして、コーチに『君たちはオリンピックのメダリストだよ』と言われたとき、じわじわと実感がこみあげてきました」

 しかし、表彰台でアメリカの国歌が流れる中で抱いた感情は、決して満足だけではありませんでした。「『金メダルはまだ遠かったんだな』って、悔しさも同時にありましたね。その悔しさが、次のロサンゼルス(2028オリンピック)へのモチベーションになっています」

大きな支えとなった、フェンシングへの助成

int_170_8 パリでの銅メダル獲得は日本女子フェンシング史上初の快挙 [写真]=Maja Hitij/Getty Images

 宮脇選手は、フェンシングという競技の特性についてこう語ります。「いわゆる記録競技ではないので、出場資格を得るためには、海外で実際に世界中の選手たちと戦い、ランキングを上げていかなければなりません。だからこそ、年間の海外遠征費はとても大きな負担になります」

 競技を続けるうえで、経済的に大きな支えのひとつとなってきたのが、スポーツくじによる助成金だといいます。特に自身が日本代表に加わったばかりの頃は、日本女子フェンシングがまだ世界的に強豪とは言えなかった時期。国際的な選手と練習できる機会は、何にも代えがたい財産となりました。

「試合ではなかなか対戦できないような選手たちと練習できたことは、すごく大きな経験でした。助成金がなければ、そうした機会もなかったと思います。何百万円もかかる遠征費を自分ひとりでまかなうのは難しいですから、スポーツくじの助成金には本当に支えていただきました」

 スポーツくじによる助成金は、ジュニア時代から合宿の開催にも活用されてきました。「U-17やU-20のときから、NAVIキャンプのような日本フェンシング協会が実施する育成合宿は、当時の私にとっては貴重な経験だったので、こうした活動に対してのサポートは子どもたちにとっても大変ありがたい機会だと思います」

 競技の未来を支えるしくみがある。その存在に対して、宮脇選手は感謝とともに、次の世代への思いをにじませていました。「トップ選手はもちろん、もっと下の世代の子どもたちにも恩恵が届くような活動が広がってほしい。フェンシングを含め、スポーツが楽しいものだと思ってくれる人が増えていってほしいです」

int_170_9 愛犬の存在も宮脇選手の大きな支えに [写真]=本人提供

ロサンゼルスで金メダルを獲り、全日本選手権の会場を満員にする!

int_170_10 パリでの快挙を経て、2つの大きな夢を追う

 宮脇選手には、大きな夢があります。その一つが「全日本選手権の会場を観客で満員にすること」です。海外での試合が多い宮脇選手にとって、全日本選手権は国内のファンに競技を見てもらえる数少ない機会。その大会が「満席にはほど遠いのが現状」と、もどかしさを口にしました。

 フェンシングはスピード感に溢れた競技である一方で、初めて観る人にとってはルールがわかりづらいというハードルがあります。そうした観戦体験をより良くするために、宮脇選手は観戦をサポートする仕組みを考え始めているそうです。

「たとえば、剣の当たりどころを表示する仕組みとか、簡単な解説を表示するシステムとか。フェンシングって、わかれば本当に面白いんです。だから、観てくれる人が『楽しかった!』って思える体験を増やしたいんです」

「夢が叶った自分を誰に一番見せたいか」と尋ねると、宮脇選手は少し考えてから「昔の自分です」と答えてくれました。

「パリのときは、家族も、恩師も、見てほしかった人たちはだいたい見てくれていたんです。でも、唯一まだ見せられていないのは、昔の自分なんですよね。昔から、人に頼るのがあまり得意ではなくて、自分のことは自分で頑張る子どもだったんです。でも、そのぶん褒めてもらう機会も少なかったから、自分に『ちゃんと頑張ってるよ』って言ってあげたいです」

 代表を逃し、泣いた日。自信を失い、引退を考えた日。人知れず将来への不安を抱え葛藤し続けた昔の自分にこそ、「ここまで来たよ」と伝えたい――。そして、その夢にはまだ続きがあります。

「ロサンゼルスでは、個人でも金メダルを取れる選手になりたい。個人で金を狙える選手が団体に入れば、自然とチームも金を狙えるチームになっていると思うので。大きな夢ですけど、そこに向かって残りの3年間をしっかり使っていきたいです」

フェンシングへの助成

 フェンシングの普及・発展のためにも、スポーツくじの収益は役立てられています。

 地域の体育館へのフェンシング競技用備品の設置や小・中学生を対象とした大会の開催、NAVI事業などの未来のトップアスリートの発掘・育成など、スポーツくじの助成金が広く役立てられており、宮脇花綸選手ら日本を代表するフェンシング選手の輩出を後押ししています。

 スポーツくじの助成金は、フェンシングをはじめとした日本のスポーツの国際競技力向上、地域におけるスポーツ環境の整備・充実など、スポーツの普及・振興のために役立てられています。

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(取材:2025年5月)

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宮脇 花綸みやわき かりん

1997年2月4日、東京都出身。姉の影響で5歳の時フェンシングを始める。高校1年の時に出会ったレジェンド・太田雄貴氏の言葉に後押しされ、オリンピック出場を明確に意識する。2013年にシニア日本代表入り。リオデジャネイロ2016・東京2020の両五輪には出場が叶わなかったが、パリ2024で五輪初出場を果たすと女子フルーレ団体で銅メダルに輝く。メダル獲得はフェンシング日本女子史上初の快挙。三菱電機株式会社所属。

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