インタビュー

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インタビュー

世界選手権14度出場の“レジェンド”が繋ぐアイスホッケーとスポーツの魅力

アイスホッケー 鈴木貴人氏

37歳まで続いた現役生活、日本代表に15年間選ばれ続けた男が語る「素晴らしい体験」とは…

 現役を退いたのは37歳。小学生、高校生、大学生で日本一に輝き、15年間も選ばれ続けた日本代表では主将を務め、歴代最多となる82試合出場、48ポイント(20得点、28アシスト)を記録した。アイスホッケー界のレジェンドと呼ばれる鈴木貴人氏は現在、母校でもある強豪・東洋大学でアイスホッケー部の監督を務める傍ら、「ブリングアップ・アスレティック・ソサエティ」でアイスホッケーアカデミーを開講し、次世代を担う子どもたちの指導に当たっている。

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 指導者として接する年代は、小学生から大学生までと幅広い。2017年には日本代表ヘッドコーチも務めた鈴木氏が第一に考えているのは、もちろんアイスホッケー界の発展だが、同時にスポーツが持つ価値を未来に繋げていきたいという想いもある。

「自分がスポーツで得た素晴らしい体験が今に繋がっている。スポーツの価値や、そういう経験を伝えていきたいと思っています」

 出身は北海道・苫小牧市。兄2人の影響もあり、物心ついた時にはスケート靴を履き、アイスホッケーのスティックを握っていた。家の近所にある公園や小学校のグラウンドには当たり前のようにスケートリンクがあり、市内の全小学校にアイスホッケーチームがあった。そして、苫小牧には日本アイスホッケーリーグの強豪・王子製紙(現・王子イーグルス)があり、「野球選手やサッカー選手を目指すような感じで、当時の苫小牧にはアイスホッケー選手になりたいと思う子が多かったと思います」と振り返る。

 アイスホッケーに限らず、スポーツが持つ魅力の一つは「非現実が目の前で起きていること」だと鈴木氏は言う。野球で言えば、人間が投げる時速150キロを超えるボールを、細いバットで打ち返すと、驚くようなスピードで飛んでいく。アイスホッケーでも非現実的な現象が起きている。

「アイスホッケーは、普通に走るよりスピードが出る中で人と人がぶつかり合う。スティックでパック(球技におけるボールのこと)を打つと、トップ選手は時速170キロくらい出すんです。このスピードとフィジカルが魅力ですね」

 小学生になる前から「アイスホッケー選手になりたい」という目標を抱いたのも、そんな魅力に心奪われたからだったのだろう。

 小学校では夏はサッカー、冬はアイスホッケーをする“二刀流”だったが、中学生になるとどちらか一つを選ばなければならない岐路に立った。「楽しかったのが一番の理由。あと、小学生の頃に全国優勝できたという成功体験も大きかったと思います」と選んだのは、アイスホッケーの道。「早い段階から夢中になれるものを見つけられたのはラッキーでした」と笑顔を見せる。

何度となくぶつかった壁、刺激を受けた同世代の仲間の活躍

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 キャリアを見れば苦労なくエリート街道を歩んだように見えるが、何度も壁にぶち当たった。最初に味わった大きな挫折は、高校1年生の時だ。アイスホッケーの名門・駒澤大学附属苫小牧高等学校に進学したが、「ほとんどの選手がスカウトで入学する中、受験して入りました」。入学するなり、そのレベルの違いを突きつけられた。

「練習についていくのがやっとで、1年生の時は1回も試合に出られませんでした。小中学校では試合に出られない経験がなかったので、すごく苦しかった思い出があります。悔しさはもちろんありましたが、ここで頑張らないと自分の目標には近づけないと必死でしたね。1年間、なんとかついていけたことで体力が上がり、2年生から徐々に試合に出られるようになった。頑張らないと試合には出られない。その現実をしっかり感じられた、自分にとってはすごく大きな1年だったと思います」

 1994年3月に高校を卒業。国内では1972年の札幌オリンピック以来26年ぶりとなる長野オリンピック開催まで、あと4年と迫っていた。同世代には、高校卒業後に、日本アイスホッケーリーグへ進み、オリンピック出場を目指す選手も多くいたが、鈴木氏にはスカウトから声が掛からなかったという。進学した東洋大学では1年生から試合に出場。国内のトップリーグへ進んだ仲間たちとも連絡を取りあうことで、「見えない敵じゃないですけど、仲間はもっと練習しているんだろうなと、いいプレッシャーを感じて練習していました」と話す。

 同世代からの刺激は大きな成長に繋がった。大学2年生だった1997年に日本代表に初選出。「長野オリンピックが控えていたので、高校時代からオリンピックを意識できた世代でしたが、この頃から現実的に意識するようになりました」と振り返る。オリンピック開催直前の1997年11月まで代表合宿に参加していたが、練習試合で顔面に対戦相手のスティックが当たって歯を10本折る不運に遭い、オリンピックの舞台に立つことは叶わなかった。

 大学卒業後は、日本アイスホッケーリーグの強豪・コクド(後のSEIBUプリンスラビッツ、2009年に解散)に入り、2009年には日光アイスバックスへ移籍。2013年まで現役を続けた。この間、日本アイスホッケーリーグは休止され、韓国チームなどを加えたアジアリーグアイスホッケーへチームは移行したが、日本リーグ・アジアリーグでは歴代トップ5に入る通算576ポイントを記録。世界選手権14回、オリンピック予選2回、アジア冬季競技大会3回という出場歴は、いまだ破られぬ金字塔として輝く。

北米で学んだ長所を褒めるコーチング「すごく勇気に繋がりました」

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 37歳まで現役を続けた鈴木氏だが、長いキャリアを送る上で大きな影響を受けたのが、2度の北米でのプレー経験だ。大学3年生の時に、カナダ・アルバータ州にあるオーガスタナ大学にアイスホッケー留学。2002年にはNHL(ナショナルホッケーリーグ/北アメリカのプロアイスホッケーリーグ)の下部組織・イーストコーストホッケーリーグ(ECHL)に所属するシャーロット・チェッカーズのトライアウトに合格し、1シーズン戦った。この時、北米と日本の指導方法の違いに大きな衝撃を受けたという。

「カナダに留学した時、一番に感じたのはコーチがすごく褒めてくれること。いいところを伸ばそうとしてくれるのが印象的でした。単純に上手い下手ではなく、ここは自分の長所として生かせるんじゃないか、ということを言葉で伝えてくれる。すごく勇気に繋がりました」

 ECHLでは、選手の長所を伸ばして育成するシステムが構築されていることを実感した。

「NHLを頂点としたアイスホッケーの育成システムがしっかり出来上がっているんです。いい選手は下部組織からどんどん上に上がっていけるし、足りない選手には努力するポイントを伝えて育てる。日本のように『なんとかこの選手を一人前に』と必死に引き上げようとするのではなく、ある意味ドライな部分もあって、努力をしなければ見捨てられるし、努力をすればチャンスはやってくる。成長は自分で掴むもの。自然とハングリーにならざるを得ない環境がありました」

 こうした経験により、鈴木氏自身も現役時代、思い通りにいかない試合があっても、その中で伸ばすべき長所と努力すべきポイントを意識し、成長に繋げた。また、指導者となった後も「どの年齢になっても褒められるとうれしいもの。いいものを見つけて褒めるようにしています」と、ポジティブな声掛けで接している。

 そしてもう一つ、未来のアイスホッケー界を担う子どもたちに伝えているのが「一緒に目標を追える仲間を持つ大切さ」だ。氷上でともにパックを追い続けた仲間たちは、今でも大切な宝物。人と人との繋がりが希薄になりつつあると言われる今こそ、感じてもらいたい価値観でもある。

「何かを成功させるために、いろいろな犠牲を払いながら、全員で同じ目標達成に向かう。そういう絆や仲間の大切さを学べたことは、大きな財産になっています。アイスホッケーだけではなく、スポーツ全般の魅力でもありますよね。日常生活や仕事、家族を見ても、一人ではできずに誰かのサポートを受けている部分がある。人生に大きく繋がることだと思うので、子どもたちにも伝えていきたいと思っています」

アイスホッケーはもちろん、競技の枠を超えたスポーツの発展を目指して指導者に転身

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 欧米に比べ、日本ではなかなか子どもたちが接する機会の少ないアイスホッケー。鈴木氏はECHLで見た、よりエンターテインメント性を重視したリーグ運営から、日本もヒントを得られるのではないかと感じている。同時に、日本アイスホッケー連盟がリーダーシップを取りながら普及・育成・強化を柱とする目標設定を行い、アイスホッケー界全体で盛り上げていく必要があるのではないかと考えている。

「私もそうですが、日本代表やトップのリーグでプレーする選手は、北海道出身者が多い。さらに言えば、北海道の中でもアイスホッケーに馴染みのある地域に限られます。今、私は首都圏でアカデミーを開催していますが、やはり全国区にならないと育成や強化には繋がらない。まずは首都圏で盛り上がりを生んで、各地に繋げていきたいと考えています」

 スケートリンクの整備や次世代を担うアスリートを発掘・育成する活動に、スポーツくじ(toto・BIG)の収益による助成金が役立てられている。日本のスポーツ界をサポートする仕組みがあることについて、鈴木氏は「心強いですよね」と大きく頷く。

「日本代表のヘッドコーチをしていた時も、特に選手の発掘・育成の面でスポーツくじの助成金を活用させていただきました。くじの対象となるサッカーだけではなく、いろいろなスポーツの普及に繋げていただいている。こういうサポートはありがたいですね」

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 鈴木氏が子どもたちの育成に関わる「ブリングアップ・アスレティック・ソサエティ」では、アイスホッケーのアカデミーだけではなく、ラグビー、ランニング、野球のアカデミーも運営し、競技の枠を超えたスポーツの発展を目指している。

「もちろん、私はアイスホッケー出身なので、アイスホッケーが盛り上がってほしい、というのは当たり前。ただ、個人競技も含めてスポーツというものを、もっともっと広めていきたいと思っています。自分たちがスポーツを通じて経験させてもらい、今に生かせていることがたくさんある。そういうものを伝えていきたいですし、スポーツから学んだことを別のフィールドにも繋げていく子どもたちが増えていってほしいと思います」

 スポーツをきっかけに子どもたちの成長を後押しできればと、これからも鈴木氏の活動は続いていく。

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鈴木 貴人すずき たかひと

1975年8月17日、北海道生まれ。東洋大学アイスホッケー部監督。地元・苫小牧市で物心ついた頃からアイスホッケーを始め、小学生の時には全国優勝を経験。高校は地元の強豪・駒澤大学附属苫小牧高等学校に進学した。3年生で出場した全国高等学校アイスホッケー競技選手権大会では4試合に出場し、9ゴール、3アシストの活躍で優勝に貢献。東洋大学では1年生から試合に出場し、2年生の時には大学リーグで得点、アシスト、ポイントの3冠に輝き、チームを優勝に導いた。3年生の時にカナダのオーガスタナ大学に留学。4年生で長野オリンピックを視野に入れた日本代表候補となるが、練習試合で不運な負傷をし、オリンピック出場は叶わなかった。1998年4月に日本アイスホッケーリーグの名門・コクドに入社。日本アイスホッケーリーグと全日本アイスホッケー選手権大会で新人賞に輝いた。2002年9月にはトライアウトに合格し米イーストコーストホッケーリーグのシャーロット・チェッカーズに移籍。オールスターゲームにも出場した。2003年に帰国後はコクドに復帰。チームがSEIBUプリンスラビッツと改称後も所属し、2009年にチームが解散されると日光アイスバックスに移籍した。2013年に現役引退後は、東洋大学や日本代表などで監督を務める傍ら、「ブリングアップ・アスレティック・ソサエティ」でアイスホッケーアカデミーを開講し、幅広い世代の育成に携わっている。

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