インタビュー

int_481.jpg

インタビュー

歴史を作った“侍パドラー”がカヌーに捧げた人生「もっと広まって欲しい」

歴史を打ち立てた羽根田選手がカヌーにかけた人生、魅力を語った

 日本のカヌー・スラロームの歴史を変えた選手がいる。2016年のリオデジャネイロオリンピックの男子カナディアンシングルで、アジア勢初となる銅メダルを獲得した羽根田卓也選手だ。高校卒業後すぐに単身スロバキアに渡った侍パドラー。一体その地で何をつかみ、どう成長を遂げたのか。そしてメダル獲得の裏に隠された奮闘とは――。カヌー競技の第一人者として期待を背負う中で、2020年の東京大会で自らに課された使命にも、真正面から立ち向かっていく強い意思を示した。

 まず、カヌーとはどういった競技なのだろうか。オリンピック競技としてのカヌーには、「スプリント」と「スラローム」がある。「スプリント」は、決められた距離のレーン(水路)で、複数の艇が一斉にスタートして着順を競う競技であり、「スラローム」は、流れの上流または下流から吊るされたゲートを通過する技術とスタート地点からゴールまでにかかった所要時間の両方を競うものである。羽根田選手が専門とするスラロームについて、以下の図表で簡単に説明しておこう。

int_48_1

参考:公益財団法人日本カヌー連盟ホームページ
https://www.canoe.or.jp/disciplines/slalom/

 日本では決してなじみの深い競技とはいえないカヌー。第一人者としてカヌー競技の魅力を発信し続けてきた羽根田選手は、こう語ってくれた。

「競技としてだけではなく、趣味としても楽しめて、自然を感じることもできる。激流の中で艇を操り、ゲートを通る時の達成感が競技の魅力のひとつです。観ていても迫力のある競技なので、ルールもよく知ってもらえると、奥深さもわかるかなと思います。今まで、カヌーという単語は知っていても、オリンピック競技とは知らなかったという人がほとんど。今でもカヌーは分かっても、スラロームとつくと途端に分からなくなる。もっと競技の魅力を広めていきたいと思っています」

 そんな競技を羽根田選手が始めたのは家族がきっかけだった。父・邦彦さんはカヌーの元国体選手。兄も先にカヌーを始めていた。小学校3年生までは器械体操に取り組んでいたが、そこからカヌーに転向したのはいたって自然な流れだった。

「父がカヌー選手だったので、記憶のない頃から父の練習についていき、カヌーに乗っていました。定期的に通うようになったのは小学校3年生の頃からです。常にスポーツをやっているのが当たり前の家庭。器械体操を辞めた時点で、じゃあ次はカヌーだと。特に考えることはなく、自然な流れでしたね。中学生くらいまでは、辞めたいと思ったこともある。楽しくて気持ち良くて、好きなんですけど、つらいトレーニングもやっていたので。楽しさよりもつらいことがあって、嫌だなと思っていました」

 小中学生のスポーツ経験者の多くが一度は感じるスポーツのつらさを同じように味わったスポーツ少年だったが、最初のターニングポイントは中学校3年生で出場したジュニアの国際大会だったという。42位と惨敗。世界との差を痛感するとともに、自身の描く将来像もはっきりと定まった。

「そこで世界のレベルを目の当たりにして、自分の情熱、人生をカヌーに捧げたいなと。高校の3年間は、それこそ全てを(カヌー)競技に費やした。高校3年生のジュニアの大会(スロバキアで行われたジュニアプレ世界選手権)でメダルを獲得することが大目標でした。とにかくそこを目指して練習を積みましたが、その大会での結果が6位だった。当時、日本人で一桁の順位に入ることは大変なこと。だけど自分の中ではすべてをカヌーに費やして、表彰台を狙っていたから悔しさばかりでした。一方で手応えも感じた。この先世界で戦っていく上で、このまま日本で続けていても差が開いていく。世界で少しでも高いところへ行きたいと。そのためにスロバキアへ渡ることを決めました」

 18歳にして単身、スロバキアに渡ることを決めた。カヌーの本場に飛び込む決断に、迷いは全くなかったという。

「全然悩みませんでした。悩むというより、世界で勝負するにはそれしか道がなかった。日本でどうしようというのは考えていない。スロバキアに行くか、カヌーを辞めるか。日本でやっていても世界では戦えないと考えていました」

 覚悟を決め、父に自らの意思を告げると、後押ししてくれたという。以来、現在に至るまで13年間、スロバキアで過ごすこととなった。

“第二の故郷”スロバキアでの生活で身につけた強い精神力

int_48_2

 ヨーロッパの中央部に位置し、公用語はスロバキア語。1993年にチェコスロバキア(当時)が連邦を解消し独立して生まれたため歴史も浅く、日本人には馴染みの少ないスロバキアでの生活。苦労はもちろんあったが、羽根田選手の“強くなりたい”という信念が全てを凌駕した。

「大変なことはたくさんありましたけど、自分の目標がはっきりあったので、スロバキアにいなくてはいけない。そういう信念がありました。つらいこともありましたけど、帰りたいと思ったことはありません。とにかくスロバキアには充実した環境、コース、コーチ、全てが揃っている。思い切り練習に取り組めて、自分自身が日々レベルアップできるのが楽しかったですね」

 文化の違いを感じながらも、1年半でスロバキア語をマスターし、過去に同国の首相を何人も輩出したコメンスキー大学の大学院を修了するまでに。スロバキア人はもともと警戒心が強いというが、羽根田選手が言葉を覚えるとともに歓迎され、すっかり打ち解けられるようになった。今では年間の3分の2をスロバキアで過ごし、すっかり“第二の故郷”だと笑う。

 スロバキアで得られたものは数えきれないが、最も大きかったものは、単身で飛び込んだことで身についた強い精神力だ。

「1番は、やっぱり『何事もやってやれないことはない』ということ。競技も、言葉にしても、大学の勉強にしても、一度やると決めたことは、必ずできる。スロバキアという国が中途半端に優しくなかったことも良かった。周りに誰も日本人がいなかったですし、甘えられる環境ではなかった。その環境だからこそ良い成長ができたかなと思います」

 スロバキアでの挑戦がなければ、今の羽根田卓也がなかったことを自覚している。それは日本とのカヌーを取り巻く環境の違いが大きかったと強調する。

「スロバキアはカヌーに限らず、スポーツがとても身近にある国です。環境の差はものすごくあると感じました。強化の面でたとえると、日本には人工のカヌーコースがありません。スロバキアにある人工コースは、日本にある天然の川とは別物。人工のコースで日常的に練習ができないと勝つことは難しい。僕は日本に人工コースがなかったのでスロバキアに渡りました。そういった環境が日本にあったらスロバキアには行っていないです」

 また、ジュニア時代の育成段階での環境にも大きな差があるという。

「日本にはカヌーの指導者が非常に少ない。昔カヌーをやっていた方が、熱意で教えているようなケースが多いです。カヌーの指導でお金をもらえるような環境ではありません。スロバキアには大きな施設が2つあり、それ以外にもカヌークラブがあらゆる場所に点在しています。各所で出てきた才能ある子どもが、カヌーエリートとして英才教育を受ける。高校を卒業したら2大拠点のどちらかに所属する。軍隊と警察です。そこで軍人として、警察官として、競技をする。当然、国がバックアップする形です」

 一方で競技者の置かれる環境も大きく異なる。羽根田選手は2008年の北京オリンピック、2012年のロンドンオリンピックに出場後、競技を続けられるかどうかの瀬戸際に直面した。活動を支援してくれるスポンサーが見つからなかったからだ。10社以上に手書きの手紙を送り熱意を訴えたが、ほとんどの企業からは関心すら示されなかったと苦笑いで振り返る。

「大変といえば、大変でした。そこでもスロバキアとの差を感じました。オリンピックに2度出場しても、その競技が続けられなくなるかもしれない、ということがあるのだと……。スロバキアと日本とではスポーツ選手の地位というか、その違いを凄く感じました。日本では胸を張って、私はスポーツ選手です、と言えない。支援をお願いしようと思った会社に対して自分で資料を作りました。とにかく雇ってもらいたいので、まず会社員として働かせてもらって、その中のどこかで(競技への)支援、合宿、遠征のサポートをしていただけないかという、お願いをしました。それでも話すら聞いてもらえなかったです」

 そんな中で救いの手を差し伸べてくれたのがミキハウスだった。

「カヌーの大会には賞金もない。どこかで働きながら競技を続けている日本人選手も実際にいる。それでヨーロッパの強豪選手と勝負するというのは現実的には厳しい。ヨーロッパだと基本的に国が支援しているケースが多く、練習に割ける時間なども全く違います」

日本開催は大きなアドバンテージに

int_48_3

 一時は競技を続けられるかどうかの瀬戸際から一転、ミキハウスの支援を受けるようになって迎えた2016年のリオデジャネイロオリンピックで、アジア勢史上初となる銅メダルを獲得。4位との差はわずか0.13秒。ほんのわずかな差で、まさに自らを取り巻く状況は激変した。

「オリンピックのメダルは、まるで雲をつかむような話でした。シニアの大会で一桁の順位に入っただけで盛り上がりましたけど、それでもオリンピックのメダルは遠い話でした。現実となった時に、やっぱり夢は叶うんだという気持ちがこみ上げて来ました。今でも鮮明に覚えています。

 たった0.13秒差でしたが、その差が何の差なのか?と聞かれても、答えようがなくて……。メダルを獲るか獲れないかは、そこはもう運というか、スポーツの神様のおかげとしか言いようがないんです」

 運命を変えた0.13秒差――。羽根田選手自身はそのわずかな差を「運」「神様のおかげ」というが、メダルをつかみ取れたのは、まぎれもなく自身の努力の結晶だ。だが、その結果に甘んじることなく、すぐに4年後の東京オリンピックを見据えたという。

「責任感みたいなものは変わったのかなと思います。今までよりも注目されている分、東京オリンピックへ向けてもっと頑張らないといけないと今までよりも強く感じるようになりました」

 前回大会の銅メダリストとして出場を目指す東京オリンピック。日本での開催を最大限の追い風にする。「日本にコースができれば、コースの特徴を知っておくことができる」とアドバンテージを強調する。さらには重圧についてもポジティブに捉えている。

「自分はすごく幸せ。自国でのオリンピックって一生に一度だと思う。さらに出られるとなれば、すごい確率です。それに巡り合えたのは幸せです。ただ出るだけではなくて、さらにプレッシャーをかけてもらえるのは、選手冥利に尽きる。自分自身、重圧があったほうがいい。やってやろうというタイプです。今までの大会を振り返ってみても、勝てなかった試合では気が抜けていたことがありました」

 コースに関しては「観客席を多くしてもらい、たくさんの人に観て欲しい」と笑う羽根田選手。だが、32歳で迎えるという点に関して聞くと、顔つきが変わった。

「自分にとっての集大成になる。年齢的にもあと何度もオリンピックを目指せるわけではない。1番良い年齢だと思う。リオのメダルがきっかけでカヌー競技に注目してもらっているので、その中で期待に応えたいという気持ちです」

スポーツくじの助成金による支援に感謝「本当にありがたい」

int_48_4

 2018年はワールドカップ4大会で1度も決勝に進めないなど不振に陥ったが、決して悲観していない。課題と収穫があったと捉えている。2019年は東京オリンピックの出場権がかかる大事な1年。10月には代表選考会が行われる。まずはオリンピックの舞台に立つチケットを獲得することが目標となる。

「そこで代表のチケットを勝ち取ることと、それにこだわり過ぎるのではなくて、チケットを勝ち取りつつも、その中で良い成績を残して、2020年の大きなジャンプにつなげられるようにしたい。まずは選考会に最高の準備をして臨みたい。自分は油断をしないと決めている。まずは今年からしっかりと結果を求めていきたいですね」

 2020年の東京オリンピックでは前回大会に続くメダル獲得が期待される。自身もその期待と真正面から向き合う。

「前回(の結果)を下回ることは許されない。そこ(メダル獲得)は自分の中でやらないといけない。メダル獲得へ必要なことはたくさんある。(その中で)一つだけ挙げるとしたら、東京オリンピックという特別な舞台で自分の力を発揮できるように気持ちを作ることです」

 カヌー界の発展のため、さらにカヌー競技を日本に普及させるために、メダル獲得を至上命題に掲げた。競技の普及・発展のためには、競技環境の整備も欠かすことができない。その一端を担っているものに、スポーツくじ(toto・BIG)の収益による助成金がある。スポーツくじの助成金は、キッズ・ジュニアの発掘・育成など、カヌー競技のためにも役立てられている。個人としても助成を受けている羽根田選手は感謝を口にする。

「スポーツくじの助成金が競技環境の整備に充てられています。例えばジュニア世代のカヌーの裾野を広げる、底辺を拡大するという意味でも、我々競技者にとっても本当に嬉しいです。個人としても助成を受けさせていただいて、スロバキアにも行くことができました。スロバキアに行っていなければ、今の自分はありません。助成金が幅広く使われていることは本当にありがたいことです」

 このような支援こそが、競技の発展につながるということを実感している。

 オリンピックに2度出場しながらも、支援がなく一度は競技を辞めるギリギリまで追い込まれた。それでも競技を続けられたのには、自身の努力はもちろんだが、様々なサポートがあってこそだ。決して恵まれた環境ではないカヌー競技。そんな日本カヌー界の歴史を変えた第一人者は、期待、重圧、多くのものを背負って4度目の大舞台へ向かおうとしている。

int_48_5
int_48_01

羽根田 卓也はねだ たくや

 1987年7月17日、愛知県出身。父の影響で小学校3年生からカヌーを始める。杜若高等学校3年時に日本選手権優勝。同年のジュニアプレ世界選手権で6位入賞。高校卒業後、単身カヌー強豪国のスロバキアに渡り、コメンスキー大学体育スポーツ学部に進学。その後、同大学の大学院を修了。2008年の北京オリンピックに初出場。2012年のロンドンオリンピックでは7位入賞。2014年の世界選手権で5位。2016年のワールドカップで日本人初の3位。同年8月のリオデジャネイロオリンピックで3位に入り、同競技アジア初の銅メダルを獲得した。2018年のアジア競技大会で金メダル。2020年の東京オリンピックで2大会連続のメダル獲得を目指す。

アンケートにご協力ください。

Q1

本記事を読んで、スポーツくじ(toto・BIG)の収益が、日本のスポーツに役立てられていることを理解できましたか?

とても理解できた
なんとなく理解できた
理解できなかった
Q2

スポーツくじ(toto・BIG)の取り組みに共感できましたか?

とても共感できた
なんとなく共感できた
共感できなかった
送信