インタビュー

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世界が称賛する前人未到のキャリア 車いすテニス界レジェンドの原点

車いすテニス 国枝慎吾氏

「スポーツから学ぶ、成長のヒント」GROWING byスポーツくじ。今回は、4大大会(全豪オープン・全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープン)で歴代最多の50勝(シングルス28勝、ダブルス22勝)を挙げ、パラリンピックでは4個の金メダル(シングルス3個、ダブルス1個)を獲得するなど長年にわたって車いすテニス界の第一人者として活躍された国枝慎吾氏が登場する。史上最高のテニスプレーヤーの一人として称される、かのロジャー・フェデラーも一目置くレジェンドは今年1月、世界中に惜しまれながらコートを去った。9歳で車いす生活となった少年は、どのように車いすテニスと出会い、その後、前人未到のキャリアを築くことになったのか。前編では、最強の男の原点を探る。

引退決意は車窓から見た富士山「もう登ったな」

――国枝さんは今年1月22日に引退を発表されました。運転する車からふと富士山を眺めた際に決断されたとか?

「そうなんですよ。(全豪オープンに向けて)オーストラリアへの航空チケットを用意して、1月6日に出発予定だったんですね。その3日前に、自宅から味の素ナショナルトレーニングセンターに車で向かっている時に、天気が良かったので富士山が見えたんです。もう登ったなという気持ちになりました。下山の方が難しいと言うし、人生をトータルで見たら新しい山を登る時期でもあるんじゃないかって思ったんですよね」

――昨年にはウィンブルドンの男子シングルスを制して「生涯ゴールデンスラム」(4大大会とパラリンピックで優勝)を達成され、ランキング1位のままでの幕引きとなりました。

「2013年にパラリンピックの東京開催が決まってコロナ禍で延期にもなりましたけど、『この先もう1勝もしなくていい』と思うくらい懸けていました。東京パラリンピックで金メダルを獲れて、僕の中では90%以上ピリオドを打った感じではあったんです。ただ調子が良かったので、このままの流れだったら次のウィンブルドンも勝てるかもしれないと思い、実際にそうなった。あそこで(引退は)ほぼほぼ決まっていたかな、と。妻も『もういいんじゃない』と言ってくれて、一番近い人からOKをもらっていたので、あとはもう自分の気持ち次第というところでずっと悩んでいました。富士山を見た時に『もういいぞ』と言われたような感じがありましたね」

少年野球に熱中も、まさかの脊髄腫瘍が発覚

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――前人未踏のキャリアを築き、車いすテニスをやりきった国枝さんの「原点」について、お伺いできればと思います。少年時代は野球にかなり熱中していたそうですね。

「ジャイアンツファンでした。当時は斎藤(雅樹)さん槙原(寛己)さん桑田(真澄)さんの先発3本柱で、4番に原(辰徳)さん。ずっとテレビの野球中継を観ていましたし、少年野球もやっていたので、将来はプロ野球選手になるのが夢でした」

――ご両親もスポーツ好きだったようですね。

「父が野球好きでしたから、週末はよくキャッチボールをしていました。母の趣味はそれこそテニス。自宅では衛星放送でグランドスラムの中継が流れていて、テニスが縁遠いものではなかったんです。ただ、その頃は野球にしか興味がないから、15-0(フィフティーンラブ)と言われても点数の数え方すら分からなかったですけどね」

――野球では守備が得意だった、と。

「僕、テニスと一緒でガッツ系なんですよ(笑)。アイツはボールを後ろに逸らさないで身体で止める、となってファーストが多かった。低学年の野球だとファーストでアウトにできないことって結構ありましたから。守備には自信があった一方で、逆に打つ方はそんなに得意じゃなかったんじゃないかなと記憶しています」

――9歳の時に脊髄腫瘍が発覚することになります。

「腰が痛くなったのは小学4年生になる前の春休みでした。少年野球で腰を落とすからそれが原因なのかなと思って、最初は地元の接骨院に行ったんです。でも、日に日に痛くなるので病院でMRI検査をすることになりました。MRIは狭いし、暗いし、動けないし、もう泣きわめいちゃって検査ができなくて、後日に延期になって。あの頃、MRIはそこまで普及していなくて、順番待ちが結構あったんです。やっと検査できた時に、脊髄に腫瘍があることが分かりました。その日に自分の足が動かなくなったことを覚えています。東大病院に転院し、(検査の)翌日に手術して腫瘍を摘出しました。抗がん剤治療、放射線治療が始まる中で、髪も抜けたりして……。半年間ほどの入院の時に母から、一生、車いすになることを告げられましたね」

――国枝さんはどのように受け止めたのですか?

「体育の授業をどうしようとか、野球できなくなっちゃったとか、小学4年生ですから車いす生活がどういうことなのかって深く考えていなかった。思春期の頃ならもう少しふさぎ込んでいたのかもしれませんが。でも、野球はできなくなったけど、復学したときから『スラムダンク』が流行っていたので、友達とバスケを放課後に決まってやるようになりました。中学になって違う学校になってからもみんなでやっていましたし、ふさぎ込むこともなくて毎日が楽しかった思い出の方が強いですね」

気乗りしなかった車いすテニスとの出会い「でもやり始めたら…」

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――そして、車いすテニスと運命的な出会いを果たします。

「活発な僕の姿を見て、母が車いすのスポーツをやらせたい、と。自宅から通える場所にTTC(公益財団法人 吉田記念テニス研修センター)があったんです。車いすテニスのレッスンをやっていたことは本当に運命としか言えない。当時はおそらく世界でここしかなかったんじゃないですかね。車いすテニスという競技を観たこともなかったし、今のようにSNSや動画サイトもないから知識もまったくない。最初はコートに行くのも嫌でしたよ。僕もそうなんですけど、(当時は車いすに乗っている人と接したことがほとんどなかったので)車いすに乗っている人に対してどのように接していいのかが分からない。それに車いすテニス自体、そんなに大したことないとも思っていました。

 でもやり始めたら、思った以上に激しいスポーツで、これだったらちょっとやってみてもいいかなって。打つことに関しては野球をやっていたんでタイミングはある程度分かるし、友達とバスケをやっていたんで車いすの操作も身についていました。車いすテニスをずっとやっている大人たちよりも動けて楽しかったし、段々とうまくなっている自分を感じられてハマっていきました。ただそれ以上に、先輩方が自分で運転してTTCまでやってきて、車いすを自分で降ろしたり乗せたりしていて、自立してやっているんだと子どもなりに感じたことも自分にとって大きかったように思います」

――やり始めてから辞めたいなと思ったことはあるのですか?

「辞めたいっていうより、どうしようかなっていうのはありました」

――と言いますと?

「高校に入るまでは学業を優先して車いすテニスをやっていました。テニスの大会は大体火曜日から始まって日曜日に終わるので、1週間くらい掛かるんですよ。学校を休むつもりもないので、結局出られるのは夏休みくらい。大会はすごく楽しいんですけど、終わったらまた1年待たなきゃいけない。中学生の頃は『また1年待たなきゃいけないのか』ってそんな感じでしたね」

一番楽しい「自分がうまくなっていく過程」

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――中学、高校と順調に才能を伸ばしていくことになります。

「これは随分と後になってから思ったことなんですが、大会で優勝することはもちろんうれしいですよ。でも一番大事な楽しい時間って、自分がうまくなっていく過程なんですよね。たとえば打ち方をこのように工夫したら、もっと強い球を打てるようになったとか、学べる瞬間こそ楽しいし価値がすごくある。だって好きなものを研究するって楽しいじゃないですか。ゲームでも『ストリートファイターII』でうまくコンボをつなげたり、『ウイニングイレブン』でうまくワンツーやったり、習得するまで熱心にやり込んでいましたから(笑)。そうやってうまくなっていく過程を楽しむというのは、子どもから大人になっても、ずっと持ち続けていました」

――うまくなっていくことが何よりの喜びだったのですね。研究熱心な国枝さんがテニスノートをつけるようになったきっかけを教えてください。

「書くようになったのは、確か世界を回るようになった18歳の頃。試合前のページに対戦相手の傾向、試合後のページに実際に対戦して何が起こったかを書いておくと、見直せるじゃないですか。車いすテニスは競技人口がそこまで多くはないので、同じ選手と対戦することがやっぱり多い。ノートに書いたことがヒントにもなります。もしそこで負けたとしても、次に活かせればいい。書くのは相手のことばかりじゃありません。自分自身の改善点や気づいた点もノートに書き込みます。相手も自分も両方研究していけば、勝利にも近づいていくという考え方ですね」

 後編では、競技人生でのターニングポイントとなった出会いや国枝氏が長らく座右の銘としてきた「俺は最強だ!」という言葉に込められた真意に迫ります。

(後編はこちら)頂点で持ち続けた挑戦者の精神 「俺は最強だ!」で払拭した弱気の虫

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国枝 慎吾くにえだ しんご

1984年2月21日、千葉県出身。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍による下半身麻痺のため車いす生活となり、小学6年生で母の勧めもあって車いすテニスを始める。20歳だった2004年にアテネパラリンピックに出場し、斎田悟司氏とダブルスで金メダルを獲得。2006年10月にアジア人初の世界ランキング1位となった。以来、2023年1月22日に引退表明するまでグランドスラム車いす部門で男子世界歴代最多50回の優勝(シングルス28回、ダブルス22回)、パラリンピックでは金メダル4個(シングルス3個、ダブルス1個)を獲得し、生涯ゴールデンスラムを達成している。2023年3月17日に国民栄誉賞受賞。

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