インタビュー

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中学時代は同級生を指導 日本代表エースを夢に近付けた“負けず嫌い”

バレーボール 西田有志選手

「スポーツから学ぶ、成長のヒント」GROWING byスポーツくじ。今回は、バレーボール男子日本代表で副主将を務める西田有志選手が登場する。19歳の時に日本代表に初選出されて以来、大舞台でも物怖じしない度胸と最高到達点350センチという驚異の跳躍力で若きエースとして活躍。2021年の東京オリンピックでは29年ぶりのベスト8入り、今年のネーションズリーグでは銅メダル獲得に貢献した。前編では、バレーボールとの出会いについて語ってもらうと同時に、小中学生の頃に夢を叶えるため積んだ努力などについて深掘りする。

元バスケットボール選手の両親から学んだ「やるか、やらないか。0か、100か」

――西田選手は8歳の時、北京オリンピックをテレビで視聴して「僕もバレーボールでオリンピックに出る」と宣言したと伺いました。ご自身で記憶されていますか?

「さすがに覚えていないのですが、オリンピックという舞台に憧れを抱き始めたきっかけだと思います。親にそう言ったみたいなので、本当なのでしょうね(苦笑)」

――どのような心境だったのか、想像していただけますか。

「プレーする選手たちの姿を見て、単純にカッコいいと思ったのでしょう。勝ち負けよりも、カッコいいと思う人たちがテレビ画面の中にいました。仮面ライダーを好きになるのはカッコいいと思うから。それと同じです(笑)」

――夢や目標を言葉にする意味をどのように考えますか?

「年齢が上がっていくにつれて言葉に対する意味や重要度は変わってきますよね。大人になったら一言ずつに責任を持たなければいけなくなる。でも、子どもの時はそれをあまり求められない。僕の場合は8歳ですしね(苦笑)。それでも子どもながらにモチベーションになる場合もあると思いますし、言ったからにはやらなければいけないという想いも心のどこかに芽生えてきました。自分が言ったことに対してどうやってトライしていくかが大切。そこは両親から学んだ部分でもあります」

――ご両親からどのような教えを?

「やるか、やらないか。0か、100か。『とりあえずやってみよう』はやめろ、と親に何度も言われました。中途半端がとにかく嫌いな両親でした。そういった考え方は少なからず今の自分の土台になっていると思いますし、試練や困難から絶対に逃げないことだけは強く意識しています」

中学ではバスケットボールの道に進もうとするも…

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――あらためて西田選手とバレーボールの出会いを聞かせてください。

「僕には8歳上の姉と6歳上の兄がいて、2人は小さな頃からジュニアバレーボールに通っていました。だから、自分も物心ついた頃には体育館にいました。3歳か4歳でバレーボールを始めて、少しずつ試合に出させてもらうようになってからは、点を取ることができる喜びやレシーブできる喜びを感じました。自分にできることが増えていくのがすごく楽しくて、バレーボールにのめり込んでいきました」

――ご両親は実業団のバスケットボール選手だったと伺いました。そちらの選択肢はなかったのですか?

「それも考えました。中学校に上がった時はバスケットボールをやろうかなと思っていたくらいです。ただ、両親はどちらも負けん気が強くて、顧問の先生の指導に対して口を出してしまうのを懸念していました。だから冗談半分でダメと言われていたんですよ(苦笑)。自分たちはこうやっていたからという固定概念があるから口を出してしまう、と」

――当時、西田選手自身の意思は?

「どちらでも良かったんです。バレーボールをやっていてもちろん好きでしたけど、それを生業にするという覚悟はまだありませんでした。バレーボールとバスケットボールで迷いました。ただ、兄が中学校でバスケットボールをやっていたんですけど、両親は隣でいつもブツブツ言っていました。『それは違うやろ』とか。『なんや、そのドリブルは』とか。これはやりたくないなと思いました(笑)」

環境が整わなかった中学時代に取った驚くべき行動とは

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――小中学生の頃はどのようなバレーボール生活を送っていたのですか?

「結果を出せない時間が長かったと思います。小学4年生の時に一度だけ全国大会に出場しましたけど、5年生と6年生の時は県大会で負けてしまって悔しい思いをしました。中学の3年間は顧問の先生が毎年変わって、そのうちバレーボール経験者の先生は1人しかいない。だから、指導してもらえる環境がしっかり整っていませんでした。僕自身は近くの地区の強いチームにも誘われていたのですが、当時はバレーボール漬けだったわけでもなくて、本気で考えていませんでした。ただ負けず嫌いの性格だったので、入学した当初は県大会にも出場できずに負けているのが腑に落ちませんでした」

――そこで取った行動は?

「自分が教えるしかないな、と。部員は6人だけで、僕の友達5人のうち1人は少しだけバレーボールをかじったことがあるくらいで、他の4人は完全に初心者でした。そのチームをどうやって勝たせるか。小学校のクラブチームを見学して、どんな指導をしているのか学びに行きました。毎週のように顔を出して、球出しもしました。教わるというよりも、見よう見まねで吸収していくというか」

――同級生にバレーボールを教えるにあたって、大切にしていたことがあれば聞かせてください。

「まずバレーボールを好きになってもらわないと始まらないと思っていて、そのための練習を考えたつもりです。中学2年生で県大会に出場できて、3年生の時には県で3位になって、東海大会でベスト8まで進みました。みんなで努力したことが少しずつ実を結んでいく過程はとても充実していましたけど、その時は苦労というか、たくさん考えて悩みました」

――選手兼コーチの経験が自身の成長につながった部分もありますか?

「自分のプレーを言語化して人に伝える必要性を痛感しました。自分がプレーしている時は無意識に身体が動いている部分も多いので特に考えていなかったのですが、それを仲間に教えるにはしっかり言語化できなければ伝わらない。とても難しい課題でしたが、考えることが自分の成長にもつながったと思います」

――言葉で伝えても、西田選手とまったく同じプレーはおそらくできないですよね?

「その通りで、やっぱり難しかったです。まだ中学2年生だったので、たくさん喧嘩というか言い合いをしました。でも今考えると、それは僕が悪くて、自分の価値観を押し付けていたんです。『なんでできないの?』という考えでやっている自分がいて、傲慢でした。ただ人生経験としては、中学2年生でそういった環境にいたことがポジティブに働きました。少しずつ下級生も入ってきてくれて、3年生になっても自分が練習を教えながらプレーしていました。自分自身が練習をするのはもちろん大切ですが、その練習を咀嚼して人に伝えるという努力とプロセスが、僕の中では貴重な財産になっています」

春高バレー出場経験がなくてもたどり着いたVリーグへの道

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――高校進学の際に県外の強豪校から誘いを受けたとか。その中で、あえて地元の高校を選んだ理由は?

「実績では劣っていた高校かもしれませんが、勝てないことはないだろうと感じていました。中学2年生と3年生の時に選抜チームでプレーした時の監督がいた高校で、その先生に恩返ししたいという気持ちもありました」

――結果として高校3年間で全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)への出場は叶いませんでした。高校進学の際の決断をどのように振り返りますか?

「間違った選択をしたとはまったく思っていません。確かに春高には一度も出場できなかった。もちろん出られたら一番良かったけど、僕は結果と同じくらいプロセスを大切にしていました。春高に出場できなかったけど、タイミングと運もあって自分はVリーグでプレーするようになった。春高がすべてではないし、出ていなくても今がある。春高に出場していなくてVリーグでプレーしている選手は本当に稀だと思うけど、かといって0%でもないのは自分が一番分かっています。最も重要なのは、目標に到達するまでの過程であり、姿勢です」

――失望感はなかった?

「やっぱりダメか、くらいでした。長い人生においての、たったの3年間ですから。当時はVリーグでやりたいという考えもまったくなかったんです。卒業したら普通に仕事をして、お給料をもらって、空いている時間にバレーボールができればいいと思っていたんです。だからショックはあまりなかった。チームメートと一緒に大きな舞台で戦いたかったという想いはありましたけど、今となってはみんなで笑って話せることですから」

――では、本気でオリンピックを目指すきっかけになった出来事は?

「18歳でU19日本代表に初めて選ばれた時です。僕が中学生の時にオリンピックの東京開催が決定したんですけど、当時はまったく意識していませんでした。北京オリンピックを見た時の宣言も、子どもだから忘れていますよ(苦笑)。でも、日本代表のメンバーになって日の丸を付けたら、上を目指すしかないという気持ちになりました。ジェイテクトの正社員としてVリーグでプレーして、初めて日本代表の一員として世界選手権を戦いました。世界のトップレベルを肌で感じて、もっと成長したいという気持ちが強くなった。そのために半年で正社員を辞めて、プロ契約選手に切り替えてもらって。その時にはバレーボールを生業にしていくと決めていました」

 後編では、目標だったオリンピックの舞台に立ち、実際に肌で感じた特別な雰囲気や、2022年に突如襲われた原因不明の体調不良、逆境をも力に変えるポジティブシンキングについて迫ります。

(後編はこちら)逆境を力に変える「楽しめたもん勝ち」の心 代表エースの前向き思考

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西田 有志にしだ ゆうじ

2000年1月30日、三重県出身。パナソニックパンサーズ所属。ポジションはオポジット。元バスケットボール選手の両親を持ち、姉と兄の影響で幼稚園児の頃からバレーボールを始めた。高校時代は全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)への出場は叶わなかったが、U19日本代表に選ばれ、第11回アジアユース男子選手権大会で優勝。VプレミアリーグのジェイテクトSTINGSに高校生選手として参加し、卒業後に正式入団した。2020年にはチームをVリーグ初優勝、天皇杯初優勝に牽引した。日本代表では2019年に初選出され、若きエースとして活躍。2021年には東京オリンピックで29年ぶりにベスト8入り、2023年にはネーションズカップで銅メダルを獲得した。2021年にイタリアプロリーグのセリエAに移籍するも、翌年にジェイテクトSTINGSに復帰。2023年にパナソニックパンサーズへ移籍した。

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