インタビュー
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何事にも挑戦し続けた子ども時代 感謝する恩師との運命的な出会い
パラサイクリング 川本翔大選手
「スポーツから学ぶ、成長のヒント」GROWING byスポーツくじ。今回は東京パラリンピックの3キロメートル個人パーシュートで4位入賞を果たしたパラサイクリングの川本翔大選手が登場する。生後間もなく病気のため左足を付け根付近から切断。スポーツ好きで活発な少年に育ち、障がい者野球では世界大会出場を果たす。その後、出会ったパラサイクリングでパラリンピック2大会連続出場を果たした川本選手はどのような子ども時代を過ごしたのか。前編では、野球部に所属した高校時代、競技や恩師との運命的な出会いについて紐解く。
運動好きで活発だった子ども時代、やりたいことを応援してくれた母
右足のみでペダルを力強く踏み込み、スピードに乗って“人車一体”となる。
義足を必要としない。ずっと培ってきたそのバランスによって類い稀な推進力は生み出される。
2022年10月、フランスで開催された「パラサイクリングトラック世界選手権」において、川本翔大選手はC2クラス(2番目に障がいが重い)で得意とするトラックの3キロメートル個人パーシュートをはじめ、3個の銀メダルを獲得した。
生後間もなく病気によって左足を付け根付近から切断しながらも、あらゆるスポーツにチャレンジしたうえで、高校卒業後にパラサイクリングと運命の出会いを果たし、競技歴わずか8か月で2016年のリオデジャネイロパラリンピックに出場。そして、2度目の出場となった2021年の東京パラリンピックでは3キロメートル個人パーシュートでメダルまであと一歩の4位に迫った。“自転車漬け”の日々を楽しむ現在27歳の彼は、来年に控えるパリパラリンピックのメダル候補である。
彼の足跡をたどっていくと、チャレンジ精神の源泉が見えてくる。
自然に囲まれた広島県三次市の出身。足のハンディキャップなど気にせず、運動好きで活発な子どもだった。
「小さい頃から身体を動かすのが大好きでした。サッカー、テニス、卓球、バドミントンなど、いろんなことをどんどんやっていた感じです。(足の障がいは)言っても仕方がない。元々両足で歩いたことがないし、松葉杖しか使っていなかったので、特に不便も感じていなかったですね」
家庭は姉、妹の3きょうだい。女手一つで育ててくれた母親は、やりたいことにダメとは一切言わなかった。
「自分がやりたいことなら何でもやらせてもらえました。ただ、自分がやったことにはしっかりと責任を持つように、と。それが今の自分に生きていると感じます」
健常者と白球を追った高校時代、障がい者野球と出会い世界大会に出場
中学を卒業して高校に進学すると、担任の先生が顧問とあって勧められた野球部に入る。もちろん、母親から反対はなかった。公式戦の出場はなかったものの、練習試合に出場して一度デッドボールを受けながらも後の打席で左中間へのヒットを放ったことが一番の思い出になった。
全国高等学校野球選手権広島大会の開会式で入場行進に参加するため、義足を作る目的で病院に出向いた。その際、障がい者野球をやっているという義肢装具士の人に声を掛けられた。
「来てみないかと言われて、じゃあやってみよう、と。高校野球ではなかなか試合に出られなかったけど、障がい者野球はすぐに試合に出させてもらえたのでうれしかったです」
ポジションはファースト。打撃に自信があり、器用に松葉杖を使って走ることができるとあって、2014年11月には兵庫・但馬ドームで開催された世界大会の日本代表メンバーに選ばれる。決勝でアメリカに敗れて準優勝に終わったが、川本選手は2試合に出場している。
やってみようと思ったら迷うことなくぶつかってみる。高校野球にも、障がい者野球にも、そして次のチャレンジとなるパラサイクリングも。
パラサイクリング、恩師・権丈監督との運命的な出会い
高校卒業後は地元・三次の会社に就職していた。障がい者野球の先輩にパラサイクリングを勧められ、日本パラリンピック委員会による選手発掘事業のイベントに参加することになった。
元々自転車に乗るのは好きだった。だが、競技と聞いて興味はあっても、「どちらかと言うと最初は渋々」。あまり乗り気ではなかった自分を変えてくれたのが、ここで出会うパラサイクリングの日本代表チームを指揮した権丈泰巳監督。素質を見出され、次の合宿に来てみないかと誘われた。
「最初1キロメートルのコースを走ったんですけど、(心肺が)やばいって思うくらいキツかったです。キツかった思い出しかないですね(笑)」
それでも期待されるのはうれしいこと。金曜日までは三次で仕事に勤しみ、週末は新幹線で伊豆ベロドロームがある練習拠点の静岡に通う生活が始まった。祖父に車で1時間半かけて広島駅まで送ってもらい、静岡には権丈監督が迎えに来てくれた。タイムを計測するたびに、大会に出るたびに、どんどんタイムが伸びていく。知らず知らずのうちにのめり込んでいた。
権丈監督は本気で接してくれた。広島との往復生活はかなり負担となるため、「静岡に来ないか」と言ってくれた。地元への愛着は強かったが、新たな仕事が見つかるまでは「面倒を見る」とも。その後、ハローワークを通じてパラアスリート採用を希望する企業があらわれ、競技に専念できるようになった。
「自転車に向いているんじゃないかと僕を拾ってくれて、それに次の仕事が決まってないのに面倒を見ていただいた。権丈さんには本当に感謝しています」
常に新しい世界に踏み出していこうとする川本選手のチャレンジスピリットは、家族や恩師に対する感謝の想いが重なってより強固なものになっていく。その結果、パラサイクリングを始めてわずか8か月でリオデジャネイロパラリンピックの日本代表候補に内定したのだ。
「その先の東京は目標にしていましたが、(直近の)リオのことはまったく想定していませんでした。競技を始めて間もなかったのであまり現実味みたいなところはなかったかもしれません」
この夢舞台へのファーストチャレンジが、川本選手の競技人生に大きな影響を及ぼすことになる――。
後編では、挫折を感じたリオデジャネイロパラリンピックから、メダルまであと一歩に迫った東京パラリンピックまでの日々に迫ります。
(後編はこちら)悔しさから学んだ練習を楽しむ大切さ 恩師とともに歩むメダルへの道
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川本 翔大かわもと しょうた
1996年8月19日、広島県出身。悪性腫瘍のため、生後2か月で左足を付け根から切断。幼少期から活発でサッカーやテニスなど色々なスポーツを経験する。高校では担任の勧めもあって野球部に入り、健常の部員とともに白球を追った。高校3年生で障がい者野球と出会い、2014年には日本代表として世界大会に出場。その後、知人に勧められてパラスポーツの選手発掘イベントに参加し、パラサイクリングを始めることに。日本代表チームの監督を務めた権丈泰巳さんの指導の下、頭角を現し、2016年リオデジャネイロパラリンピックに出場。3キロメートル個人パーシュート(C2)と団体チームスプリント(C2)で8位入賞を果たす。2021年の東京パラリンピックでは3キロメートル個人パーシュートで4位入賞。2024年のパリパラリンピックではメダル獲得を目指す。
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