インタビュー

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40歳で知ったスポーツの楽しさ 実現させたパラリンピック出場の夢

バレーボール(座位) 飯倉喜博選手

「スポーツから学ぶ、成長のヒント」GROWING byスポーツくじ。今回は、パラスポーツのバレーボール(座位)で活躍する“遅咲きのパラリンピアン”飯倉喜博選手が登場する。25歳の時に仕事中の事故で左足を失い、40歳になってアンプティサッカーに出会ってからスポーツの楽しさに目覚め、バレーボール(座位)にチャレンジ。46歳で東京パラリンピック出場を果たす。前編では事故によって絶望を味わいながらも前向きに転換できた母親からの言葉、そして、チャレンジ精神を培うことになるスポーツの力について聞いた。

仕事中の事故で左足切断、絶望の淵で背中を叩いてくれた母の言葉

――飯倉選手は25歳の時、仕事中の事故によって人生が大きく変わることになりました。

「元々、大阪で鉄骨のとび職をやっていました。阪神淡路大震災を契機に学校の耐震工事が増えて、当時も学校でブレース(鉄骨材などでつくられた補強材の一種)を取りつける作業をやっていた時に、吊り変えようとしたものが外れて僕のところに倒れてきたんです。逃げ場がなくて後ろに飛んで、左足が挟まりました。1トン半くらいの重量がありますから、もし飛んでいなかったら死んでいたと思います。僕、全然気を失わなかったんですよ。病院に運び込まれても、痛いのを我慢して『はよ、何とかしてくれ』と。写真で足の状態を見せられて、あまりに痛いもんやから『先生、(足を)切ってください』と自分から言いました。長男が生まれて6か月目。仕事もちょうど軌道に乗って、近い将来独立しようと思っていましたから、もう絶望しかなかったです」

――絶望から引き上げてくれたのがお母さんからの言葉だった、と。

「事故から3日間はホンマに泣いてばかりで、子どもと嫁さんの顔しか浮かばなくて。そうした時に母親が九州から病院に駆けつけてくれました。左足を失くして『ごめんな』って謝ったら、母親も泣き崩れるやろうなと思っていたんです。そうしたら『あんたがそんな弱気でどうするん。生きとったら何とかなる』と言われて、背中をバチーンと叩かれた気がしました。『そうや、弱気でおったらあかん』と思いましたね。とびの仕事は15歳から始めて10年のキャリアがあったし、左足を失っても何とかできるやろうって自信の方が不安より大きくなって。もうそこからは必死になってリハビリをやりました」

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――精力的にリハビリをこなして1年以内に復職することになります。

「膝上から切った方が(復帰は)早いと言われたのですが、本能的に『膝は残してください』と言いました。膝がなくなったら仕事もできなくなるんじゃないかと思ったところもありましたから。リハビリの先生はマジで鬼でしたね。おばあちゃんには『疲れたら休んどき』って言いながらも、僕には『やりなさい』しか言わない(笑)。リハビリが休みの土日も鉄アレイを渡されて『部屋でやっとき』でした。でも、あのきついリハビリのおかげで、目標としていた早い職場復帰を果たすことができました」

アンプティサッカー体験会で聞いた胸に残る言葉とは…

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――復職して仕事をこなし、プライベートでは4人のお子さんを育てていく中で40歳になってから、上肢または下肢の切断障がいがある人がプレーするアンプティサッカーに出会います。

「サッカーは中学の部活で1年間やっただけで、そこから特にスポーツの経験はありませんでしたし、復職してからも仕事しかしてなかった。長男がサッカーをやっていたから観るのが好きというくらいで、特に興味もありませんでした。そんな時に新しい足を作ってもらおうと馴染みの義肢装具士さんのところに行った時に、たまたまアンプティサッカーのチラシが貼ってあって、義足を外して杖を持ってサッカーをやるってどんなんやろうって、興味が湧いてきて観に行ったんです」

――間近で競技に触れてみて、どのような感想を持ちましたか。

「グラウンドの隅にあちこち義足が置いてあったのが、まずもって衝撃でした。当時は義足を見せることに僕自身、どこか負い目を感じていましたし『見せてええんや。義足を外してもスポーツできるんや』って思うことができました。それにプレーしている人が何より笑顔なんです。信じられへんくらいキラキラしていました。自分もそこで体験させてもらって『今度またイベントあるからおいでや』って誘われたので、再度行った時にそのチームに迷わず入らせてもらいました」

――それまでスポーツらしいスポーツをしていなかったのであれば、40歳で新しい世界に飛び込むには勇気も必要だったと思います。

「体験会に行った時に『できないんじゃなくて、やってこなかっただけ。やったら何とかなりますよ』って言われたことが今も胸に残っています。経験なんかなくてもやってみたいと思ったら、チャレンジしたらええ。そう思うようになりましたね。チャレンジしてあかんかったらまた違うものにチャレンジしていけばいい。そういうのを繰り返していけば、自ずとどっかでハマるんちゃうか、と。自分の場合、一発目のアンプティサッカーでハマっただけの話。年齢も、全然気にしなかったですよ。初めてのことにチャレンジするので、自分のことを気持ち的には20歳くらいにしか思ってなかったんちゃいますかね(笑)。サッカーするのが面白くなって、どんどんハマっていきました」

――勝負の醍醐味も味わうようにもなっていきます。

「最初の大会で負けた時にホンマに泣きました。実績のある強いチームなのに、自分が入ってから1回戦負け。火が着きましたね。次は絶対に勝ったると思って、猛練習するようになりました。長男にもボールの蹴り合いに付き合ってもらいました。優勝はできなかったですけど、3年連続での準優勝。延長戦で負けた試合は今でも悔しさが残っています。ただ、始めてから何年か経った後に広島で健常者を交えて行なった大会に子どもと一緒に出て、そこでは優勝できました。人生初のMVPをもらうこともできて、嬉しかったですね」

スポーツから学んだ「いいと思ったらなんでもやってみる」姿勢

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――アンプティサッカーを始めてから1年後くらいに、今度はバレーボール(座位)にチャレンジすることになります。

「アンプティサッカーで一緒にやっていた人がバレーボール(座位)の日本代表選手で、東京パラリンピックの選手発掘イベントが、今度大阪であるよって教えてくれたんです。アンプティサッカーはパラリンピックの競技ではなかったので、かなり興味がありました。イベントに行ってみたら、これまたおもろいな、と(笑)。日本代表の監督さんも僕に関心を持ってくれて。最初はサッカーで優勝したいって思っていたんですけど、段々と気持ちはパラリンピック競技であるバレーボール(座位)の方に傾いていきましたね」

――まるで東京パラリンピックに引き寄せられるように。

「そうですね。ワンチャン行ける可能性があるんやったら、チャレンジせえへん選択肢ってないよな。そう思いました。たとえあかんかったとしても目指して頑張ったなら達成感はあるやろうし、もし行けたら行けたですごいことになる。サッカーは在籍したままで、大阪アタッカーズに入って本格的にバレーをやることになりました。

 チームでの練習は楽しかったし、今度は日本代表に入るといろんな人がいろんなところから集まってくる。負けたくない気持ちもあるし、やっぱり切磋琢磨していくから強くもなっていく。段々と上達していくからまた楽しくなっていくんですよね。気持ちはまた20歳くらいになりましたね(笑)」

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――スポーツとは無縁の人生でしたが、怪我をきっかけにしてアンプティサッカー、バレーボール(座位)に出会い、とても充実していくようになります。

「今思えば、なんでもっと早くやらなかったんやろうって。義肢装具士さんがすごくいい人で、義足をつけたランナーの人や野球をやっている人にわざわざ会わせてくれたのに、その時は自分もやってみようとかまったく思わなかった。アンプティサッカーのチラシを見た時に、自分でも何か感じたんでしょうね」

――スポーツを通じて学んだことを教えてください。

「やっぱりチャレンジすることの大切さ。やらないという選択肢を省いて、いいと思ったら何でもやってみるのが自分の考え方です。人生においてチャレンジしないで、後になってから『やっておけば良かった』というのは嫌ですよね。経験あるとかないとか関係なく、チャレンジしてきて僕は良かったなって思っています」

 後編では、飯倉選手の目標に対する向き合い方、これからの夢、そして家族との絆について掘り下げます。

(後編はこちら)46歳で立ったパラリンピックの舞台 アラフィフでも挑戦し続ける理由

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飯倉 喜博いいくら よしひろ

1975年、大阪府出身。25歳の時に仕事中の事故で左足を切断。40歳でアンプティサッカーの体験会に参加したことでパラスポーツを始める。サッカー仲間がバレーボール(座位)の日本代表選手だったこともあり、東京パラリンピックの選手発掘イベントに参加。競技の楽しさに触れ、東京パラリンピック出場を目指すことに。仕事と練習の両立を図りながら、46歳でパラリンピアンとなる。現在は2024年のパリパラリンピック出場を目指し、練習を続けている。

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