インタビュー

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ラグビー日本選抜からパラスキーへ 転向を後押ししたトライの精神

パラアルペンスキー 本堂杏実選手

「スポーツから学ぶ、成長のヒント」GROWING byスポーツくじ。今回は、パラアルペンスキーで活躍する本堂杏実選手が登場する。生まれつき左手に障がいがあるなか、4歳から始めたラグビーでは18歳以下の日本選抜となるほどの実力の持ち主だった。大学2年生の時にパラアルペンスキーに転向し、競技歴わずか1年半で2018年の平昌パラリンピックに出場して回転(立位)で8位入賞。2022年の北京パラリンピックでは5種目で入賞を果たした。前編では、パラアルペンスキーの世界に飛び込む源流となった、ラグビーで培った“何事もトライ”のマインドに迫る。

ラグビーを軸に据え、色々なスポーツに挑戦した幼少期

――本堂選手は物心がつく頃からラグビーに触れる環境で育ったと聞きます。

「父が(埼玉の)クラブチームに所属して日曜日に試合をしていたので、ベビーカーに乗ったまま連れて行かれていたそうです。ラグビーボールに触るのが当たり前の環境でしたし、私も4歳からクラブチームに入ってラグビーをやることになりました。ずっと5歳からだと思っていたのですが、母親に確認したら4歳だったみたいです(笑)。障がいのことはまったく気にならなかったし、女の子の競技人口はとても少なかったので、男の子たちと一緒に練習していました。家庭環境がやはり大きくて姉も弟もラグビーをしていましたし、私自身、楽しいっていう感情よりもラグビーをするのが普通というところがあったと思います」

――弟・杏虎(あとら)さんは現在、ジャパンラグビー リーグワンの「埼玉パナソニックワイルドナイツ」でプレーするラグビー選手です。

「父が熱心にラグビーを教えてくれたので、そのおかげもあって弟はラグビーの才能を伸ばして、埼玉パナソニックワイルドナイツに入ることができました。姉も私もそして弟も反抗期みたいなものがありませんでした。反抗したら、父は相当怖かったはずです(笑)」

――いつ頃から楽しく感じるようになるのでしょうか。

「小学3年生の時、男の子にタックルしたら失神してしまったんです。もちろん、その子には申し訳なかったんですが、周りからすごいって言われるようになって私もラグビーに自信を持つようになりました。父に教わったおかげでタックルが得意になっていました。セレクション(女子ラグビー関東ユース)にも呼ばれて、そのあたりから段々と楽しくなっていった記憶はあります」

――タックルは怖くなかったのですか。

「まったく(笑)。小さい頃から怖いもの知らずで、祖母が住む10階以上あるマンションのベランダから『下をのぞかせて』とワガママを言って困らせていたみたいです。危ないので絶対にやってはいけませんが、ここからは一体どんな景色が見えるんだろうっていう興味ですよね。良く言えば、それくらい好奇心旺盛でした」

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――小学生の頃は色々なスポーツに挑戦したと聞きました。

「クラブチームでやるラグビーはもちろんのこと、同級生が通っていて私も興味のあった空手をはじめ、その後に『バク転をやりたい』と思い体操教室にも通いました。バク転ができるようになったタイミングで体操はやめました(笑)。あとはタックルを磨きたかったのでレスリングもやりたかったのですが、近くに教室がなかったんです。ちょうど弟がボクシングを習っていたので、『じゃあ私も』とボクシングにも挑戦しました」

――『何事もトライ』の精神ですね。

「何をやろうとしても、両親は『ちゃんと通うんだったらやっていいよ』と後押ししてくれて、私のやりたいと思ったものはすべて挑戦させてもらえましたね。あとはラグビーに活かせるかどうか。中学は足を速くするのと、体力をつけるために陸上部、高校はそれらにプラスしてキック力をつけるためにサッカー部に入りました。どのスポーツをするにも、その軸はラグビーにありました」

大学ラグビー部で活躍も、心が傾いたパラスポーツ挑戦の誘い

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――ラグビーにも一層、力が入っていきます。

「確かに、練習は人一倍やっていました。試合が終わったら、今度は反省会。父が映像を撮っているので『ここにいなかったから、相手にトライを奪われた』とか、『外されてしまったこのタックルは、こう入っていれば倒せた』とか、良くなかったところを指摘されます。試合後に私だけひたすらタックル練習をさせられたこともありました」

――本堂選手にとってもお父さんの指導はやはり大きかったのでしょうか。

「厳しいというより、父はラグビーに関してだけは本気なんですよね。そのおかげで、周りからも求められるタックラーになっていたのかなって。嫌だと思うことがなかったわけではありませんが、ラグビーをやめたいと考えたことはなかったですね。

 父はネガティブ思考で、私も基本的にはそのタイプ。逆に、母はめちゃくちゃポジティブ思考の持ち主で『大丈夫。最後は何とかなるから』と言ってくれます。だから、悩みがある時は母に相談していましたし、それは今もですね」

――ポジションはフランカー。高校3年生で関東選抜の一員として「サニックスワールドラグビーユース交流大会(以下サニックスワールドユース)」で優勝を経験し、その後は18歳以下の日本選抜にも選ばれました。進学した日本体育大学でもラグビー部に所属し、より高いレベルを目指していくことになります。

「身長も低いし、体重も当時は今より15キロくらい軽くて、世界では通用しないんじゃないか、と考えることもありました。でも、サニックスワールドユースで、小泉幸一コーチ(現・ 麗澤高等学校ラグビー部コーチ)から『君のタックルは好きだ』と評価の言葉をもらったことも自信になって、『じゃあ大学でも続けてみようか』と。ただ、大学に入っても(体格の)不安が消えたわけではありませんでした」

――それでも大学1年生の夏には「YOKOHAMA TKMピンクリボンカップ」で優勝し、大会MVPにも輝きます。

「この大会は関東選抜のセレクションも兼ねていたのですが、MVPをもらっても関東選抜のメンバーには入れなくて、なんだかラグビーに対する熱が下がってしまったんです。そういった時に、パラスポーツに挑戦してみないかというお話をもらったのですが、『シーズンが終わったら一度、話を聞かせてもらいます』くらいの返事をして、実はあまり興味はなかったんです。シーズン後、実際に話を聞いてみると、小さい頃から家族でファミリースキーをしていたこともあり単純に、滑ってみたいなという気持ちでパラアルペンスキーに興味をもちました。陸上も候補に挙がったんですが、中学時代にやったのでそっちはもういいかな、と」

ギアが入るきっかけとなったパラスキー日本代表合宿

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――話が一気に進んでいくことになります。2016年のことでした。

「最初は1泊2日で軽く滑って、その次に競技用のスキー板に挑戦してみよう、と。純粋に、スキーができて嬉しいという感覚でしたが、連盟に挨拶へ行った日、日本体育大学スキー部の竹腰誠部長から『ニュージーランドに行くからパスポートを取って』と言われました。その時はまだパラアルペンスキーをやる、とはっきり伝えてはいなかったんですけどね(笑)。ラグビー部へもこの話をしていなかったので、コーチに相談しました。そうしたら『大きなチャンスなんだからやるべきだ』と強く背中を押してくれました。私も、このせっかくのチャンスを活かしてみたいと思うようになったんです」

――高校2年生でスキー検定2級を取得しているとはいえ、ラグビーとは競技性においてまったく重ならない、言わば一からの挑戦となりました。

「何も知らないので、ニュージーランドに行って初めてワンピース(競技用レーシングスーツ)を着たり、レガースを着けたり、一つひとつ教えてもらいました。そこで、競技用のスキー板は長くて重くて自由もあまり利かないと知りました。それから2016年の秋に育成選手として参加させてもらったパラスキーの日本代表合宿が、私のスキーへのギアが入っていくきっかけにもなりました」

――その理由を教えてください。

「車いすの選手、義足の選手……と障がいのある選手が、目の前ですごい滑りを見せてくれて『この世界で一番になりたい』と心から思えたんです。実は、その時まではラグビーに対する気持ちも残っていました。1年半後に平昌パラリンピックがあるし、これはもう完全に気持ちをチェンジしなきゃダメだと覚悟を決めました。パラアルペンスキーへの想いが、本気じゃなかったわけではないんです。だから、本気の本気になったということ。ラグビー部のみんなにもそのことを伝えて『頑張ってこい』と言ってもらえたし、もうそこからは敢えてラグビーも見ないようにしました。ちょっとでもラグビーのことを考えないように、すべてスキーの方に気持ちを向けました」

――お父さんはどのような反応だったのでしょうか。

「『本当にやりたいんだったらやりなさい。自分で選んだ道なんだから後悔はするなよ』と。父も、そして家族も背中を押してくれました。実は私が、初めてスキー板を履いたのは2歳頃らしく、ラグビーよりも早かったみたいなんです。母の胸に抱かれながら、スキーを感じていたんですよね。だから、いつも家族にはスキーをするようにもっと早く勧めてくれていたら、今頃パラリンピックでメダルを獲れていたかもしれないのにって、言っています(笑)。でも、そんな家族だからこそ、いつも私のやりたいことをやらせてくれた。もう感謝しかありませんよね」

 後編では、2度のパラリンピック出場で感じたことや、独自の目標設定方法などについて深掘りします。

(後編はこちら)「次のパラリンピックでできれば最高」 メダル獲得で果たしたい恩返し

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本堂 杏実ほんどう あんみ

1997年1月2日、埼玉県出身。株式会社コーセー所属。先天性左手指欠損でありながら、父親の影響で4歳からラグビーを始める。高校では18歳以下の日本選抜に選出。大学ではラグビー部に所属し、2015年にYOKOHAMA TKMピンクリボンカップで優勝するとMVPを受賞。同年の7人制サーキット大会、太陽生命ウイメンズセブンズ2016でもチームを総合優勝に導いた。2016年にパラアルペンスキーへの挑戦を決意し、世界大会に出場し始めるとすぐに頭角を現した。パラリンピックには2018年平昌、2022年北京の2大会に連続出場。北京大会では出場した5種目すべてで入賞を遂げた。

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